日本科学者会議山口支部ニュース 第182号(通算)(2018年2月1日) |
つ う し ん |
WEB版 2018-2-4 |
JSA山口支部幹事会の報告増山博行(JSA山口支部 代表幹事)
昨年10月1日の山口支部大会後の第1回目となる支部幹事会は1月27日(土)、山口大学理学部で開催され、大雪影響が残る中、9名の幹事のうち6名が参加し協議が行われました。 YU学び舎第8講の概要はじめに 会員の寄稿 戦争に行った父親 〜 将来に語り継ぐ 〜増 山 博 行
4年前に亡くなった私の父親は1921年生まれで、徴兵されて中国大陸に渡り、何度かの死線を乗り越えて生還したと聞いている。具体的な戦争体験は酒の席で断片的に聞いただけである。あまり思い出したくはなかったようだ。しかし、3回忌の席で叔父から「詳しく聞いて、残しておけばよかったのに」と指摘された。戦争体験の風化が進み、未経験の世代が好戦的な言動を強めている昨今、曲がりなりにも伝え聞いた者として、親の経験した戦争について調べてみようと思い立った。とはいえ、残された日記も手帳もない。招集解除時に発行された戦時名簿の1枚の紙切れを頼りに、以前聞いた父の話をストーリィにつないでみた。父は郷里の旧制中学校を1938年に卒業し、工業学校に2年間進学し、1年間呉の海軍工廠で働いた後、さらにR大学工学部の前身である高等工科学校に進学、42年3月に卒業した。満州の交通会社に入社の辞令をもらった4月の初めに臨時招集され、広島の陸軍第5師団に属した。幹部候補生として教育を受けたとき、模擬38式銃を担いで戦車に並んで行軍中に転倒し、模擬銃が戦車に圧砕された。この件で上官は「陛下から戴いた銃を壊すとは何事」として、父を営倉にぶち込んだ。このときは戦車隊の隊長が庇ってくれて、ほどなく営倉から放免された。軍隊での上官の横暴には相当な反感を抱いていたようで、下士官試験を受け教官として広島に残ることも可能だったようであるが、そういう立場に立つことが厭で戦地に行くことを志願した。広島に残っておれば、原爆投下で第5師団壊滅に巻き込まれていたはずである。1944年に北九州の芦屋飛行場整備に駆り出された後、親にも知らせることなく45年1月に独立編成第19旅団の工兵隊員として大陸に渡った。便りがない息子は死んだものと母親(私の祖母)は思っていたという。なお、戦後数十年経って、戦友の集まる会があったが、いつまでも上官ぶった奴がいて、不愉快だったと話している。 さて、大陸に渡るときは、すでに制海権はアメリカの潜水艦に握られており、無事に着けるかどうかという、第1回目の生死の狭間にいた。大陸では5月に陸軍の編成替えがあり、第130師団工兵隊に配属となり、アメリカ軍の上陸に備え広東省で警備任務に当たった。そして、華南では2度ほど死ぬ思いをしたという。1度目は行軍中、パイナップルの実に足を取られて転んだ。その時、銃弾が飛んできてすぐ後ろを歩いていた戦友は即死であった。その後、終戦まで、身を守ってくれたパイナップルを腐ってもリュックに入れて持ち歩いていた。2度目は行軍の道筋に中国軍のトーチカがあり、部隊は進むことが出来なくなった。すると隊長が「軍曹、部下を2名連れて行って、トーチカを黙らせろ」と命令。正面突破をはかろうとすれば蜂の巣になるだけであり、死を覚悟して裏手に回りこんでトーチカの背後にたどり着いた。手榴弾を窓から投げ込もうとした部下を制し、代わりに小石を投げ込んだ。暫くすると、中国兵が坂を走り下っているのが確認でき、無血制圧に成功した。 終戦間際の南支では白兵戦が行われたのはまれで、日本軍はゲリラの掃討が主であった。日本軍が来ればゲリラは退却し、日本軍が通り過ぎればまたゲリラは戻ってくるというイタチごっこ。これが長期に及ぶと補給がままならぬ日本軍は現地調達を行う。隊長に命じられて軍票を持って買い出しに行く。しかし現地の村人は日本兵が来ると逃げてしまうので、断りもなく、適当な額の軍票を残して糧食を持ち帰る。これは現地人から見れば完全なる略奪。日本軍がいない時はゲリラが支配している地域であり、日本の軍票は持っているだけで敵への協調者と見做されるであっただろうという危険きわまりない紙切れであったのである。 太平洋戦争では日本兵は多くの犠牲を出しているが、島の防衛隊の玉砕などを除けば、無理な行軍や展開で飢餓に陥ったり病死したり、乗っている輸送船が機雷や魚雷で沈没させられた溺死、などの「戦死」が圧倒的に多かったという注1。父からも上記以外に銃撃戦にあったという話は聞いていない。満州へ転戦した部隊に属さなかったという幸運で、12月には広東省順徳県大良の収容地で罹患したマラニアも治療を受け、1946年4月に無事に引き揚げ船は浦賀に入港し、召集解除となった。 なお、父は男4人女1人の兄弟であったが、一人は海軍飛行隊員(特攻隊)として1944年7月にテニアン島空域で帰らぬ人となった注2。一人は学生として勤労動員され、朝早く呉沖の島に出かけていたとき、下宿があった広島に原爆が落とされ、その後広島で救援活動を行った被曝者である。空襲を受けた工場に動員されていた末弟は最晩年にその当時のトラウマを思わせる言動があった。そして、父の父親は50才を迎えた1943年6月に長年務めていた役場の吏員を辞し、徴兵業務に係わっていて感ずるところがあって応召し、武漢三鎮方面の作戦に従軍、揚子江渡河作戦の際に病を得て漢口の野戦病院で44年10月に戦病死した。叔母の連れ合いが冒頭の叔父であり、陸軍に志願して満州の航空隊に属し、特攻出撃する直前に終戦を迎え、ソ連軍が迫る中、中隊長の機敏な判断(血気盛んの幼年兵を騙すためか、自己保身か知らないが、本土決戦に備えるため日本に帰ると称して)で列車を乗っ取り、釜山経由で8月下旬に中隊丸ごと帰国し、境港で兵器を海に捨てたという。 私の生家がある村は第2次大戦当時、人口は3千人。村の慰霊碑には日清戦争以後の戦没者161名が刻まれている。124名は太平洋戦争開戦以後で、内59名は44, 45年に集中。43名は死没月日が刻まれていないがおそらく大戦末期であろう注3。太平洋戦争の転機と言われるのが42年6月のミッドウエイ海戦であり、44年6月のマリアナ沖海戦の敗北で決定的となり、その年7月に東条英機内閣が退陣したが、戦争は継続され、犠牲者が増え続けていったことがその慰霊碑からも読み取れる。 今年は明治維新150年と懐古主義者がかしましい。この歴史の中間点が太平洋戦争であった。戦後生まれの私の幼年期は明治維新から80年で、生家の近くの村でも明治維新前後の戦があった。しかし、そうした戦のことは明治の中頃に生まれた祖父母から話されたことがない。私にとって明治維新とは歴史の教科書に載っているだけの昔の出来事だった。現在の若者にとって、太平洋戦争とはそれと同じく過去の歴史事象と捉えられてもさもありなんである。しかし私は父母の時代の忌まわしい出来事から多くを学んだし、それを後世に伝えねばならないと思う。明治維新150年目に当たり、その前半に起きた歴史から学ぶべき事はあまりに多い。 注1 太平洋戦争では死者は、日本人軍人が230万人、一般人が80万人;朝鮮人はそれぞれ22万人と2万人、台湾人が18万人と3万人。日本軍が展開された中国で死者は1千万人、インドネシア、インド、ベトナム、フィリピン、アメリカ、その他がそれぞれ400万人、350万人、200万人、111万人、46万人、9万人とされている。そして、日本人軍人の6割の140万人は餓死者、台湾からフィリピンにかけてのバシー海峡でアメリカ潜水艦の攻撃で10万人以上が犠牲になったと言われている。 注2 1944年6月のマリアナ沖海戦で日本の制海権は失われ、アメリカはサイパン島を支配して続いてグアム島、テニアン島(本州の南南東3千km、グアムの北北東200km, サイパンの南西10km)を攻略し、10日間の戦闘でテニアン島の日本軍は壊滅した。その後、テニアン島はB-29の基地となり、本土空襲が行われ、広島・長崎の原爆投下のB-29もテニアンから出撃した。 なお、テニアンの戦いで日本軍戦死者8100人、生存者313人;アメリカ軍戦死者389人、戦傷者1816人とあり、日本軍には戦傷者が現れていない。これは1941年に東条英機陸軍大臣が示達した戦陣訓「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」に従って、戦傷者の多くが自決したためと言われている。 注3 太平洋戦争の日本人死者は人口の4〜5%と言われており、空襲と無縁であった村の死者数としては平均的な数値か。 10月以降の支部活動
・11月22日 ミニ講座「YU学び舎」第8講、「自衛隊を憲法に明記するという憲法改正案について考える」
弁護士の松田浩子さんからの話題提供をうけ、10数名の参加者は熱心な質疑、意見交換を行った。
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