「第53回思想と信条の自由を守る山口県民集会」2019/2/11
「科学と戦争―平和な世界を構築するための科学の役割」
軍学共同反対連絡会の共同代表 池内 了(名古屋大学名誉教授)


 冒頭、安倍内閣が予算案の国会審議を前に公表した科学技術予算の大幅増は、統計のマヤカシと同一のやり口;前年度に含まれなかった製品開発経費、軍事装備品開発経費などを含ませたもので、純粋な科学研究費は大学への基盤的経費にみられるように減少してきているのが実態であると氏は指摘。
 さて、自衛隊はすでに装備的には軍隊であるが、軍事裁判所がない、そこで軍として認めさせる=軍事裁判所を置くというのがアベ政権の憲法改悪の目的である。
 科学技術は人を活かすため(民生利用)にも、人を殺すため(軍事利用)にも使われてきた歴史と現在がある。この化学・技術の二面性(デュアルユース)をもって、軍学共同を合理化してはならない。
 第1次世界大戦では既存の民生技術が軍事に組織的に動員され、毒ガス、飛行機、戦車、潜水艦を生み出した。第2次世界大戦ではさらに組織的に大動員され、原爆までを造り出した。軍事開発された技術が戦後、民間に開放され電子レンジ、航空機、血液製剤、ペニシリンなどが民生に貢献している。が、あくまでも、軍事用としては陳腐化したから開放されたに過ぎない。
 我が国では戦前は軍に協力するのが当たり前の時代であった。しかし、科学者は悲惨な戦禍を顧みて、日本学術会議を発足させ、軍事研究との決別を決議し、世界にも稀な国となった。民間企業も永らく民生品の生産に励んだ。
 ところが、2013年12月の安倍内閣の閣議決定で「軍学共同」へのかじ取りがなされた。防衛大綱5カ年計画で「大学や民間機関との連携の充実により、防衛にも応用可能な民生技術の積極的な活用につとめる」、防衛省に競争的資金制度「安全保障技術研究推進制度」の発足、アメリカ以外には武器輸出をしないという「武器輸出3原則」から特定国以外には積極的に進めるという「防衛装備移転三原則」への転換、などである。三菱重工業でさえ、軍事製品は1割以内であったのを本格的な軍事産業へ転換を図ろうとするものである。
 15年度の3億円からスタートした「安全保障技術研究推進制度」の予算は17年度から100億円台で推移してきている。これに対して日本学術会議は2017年3月、この制度は研究現場への国の介入を強め、秘密保持をめぐって研究活動を制約し、研究成果は軍事目的に優先的に転用されるので、各大学等にガイドラインを設けて慎重に対応することを求める声明を発した。その結果、複数の大学で軍事研究を拒否する声明などが出されている。軍学共同反対連絡会は防衛省の軍事研究経費が採択された大学を個別に訪れ、止めるように申し入れている。
 軍事開発が人びとの生活を豊かにしたという議論に騙されてはいけない。数々の便利な製品、電子レンジ、カーナビ、コンピュータ・・・が軍事研究の副産物であることは事実である。しかし軍のイニシアティブのもとで民生に公開されており、宣伝のため、賞味期限が過ぎたものを開放しているに過ぎない。一方で、膨大な資源の浪費が行われている。武器の頻繁な更新・廃棄、武器生産工場の公害、さらに人間の能力・才能・労働力の消費である。
 軍事研究することも学問の自由だという開き直りがある。憲法第12条では「憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持」することとし、「国民は、これを乱用してはならない」「公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」としている。軍事研究に進むことは研究の自主性・自立性・公開性が担保されず、政府による研究活動への介入を招けば、結果的に学問の自由を損ない、憲法の趣旨に反する。アメリカでは学長の権限すら及ばない治外法権的な研究所で軍事研究が行われている実態を見なければならない。
 国を守るために軍事力を強化しなければならない、軍事力を技術的に優越させるために科学者を軍事研究に動員するという「軍学共同」が目論まれている。すべての戦争は自衛で始まった。自衛は必ずエスカレートし、軍事国家になってしまう。軍事力では国は守れないという事実を知るべきだ。事実、軍事基地や軍需産業は一番の標的となり危険な存在である。文化に溢れた国は攻められない。科学は世界の平和と人びとの幸福のためにあると考える。「文化で平和を守ろう」
 最後に、ガンジーの言葉「人格なき学問、人間性が欠けた学術に、どんな意味があろうか」と加藤周一の言葉「自分の知識とか頭脳を権力を強化するために使うというのは、人民に対する一種の裏切りである」「戦争を批判するのに役立たない教養であったら、それは紙くずを同じではないのか」を引用して、1時間半の講演は終わった。

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Version=2019/2/15